久しぶりです。すーです。
久しぶりのブログ再開ということで、この記事は手慣らしに書いています。
結婚式、本当に祝福したいと思える人じゃないと行きたくない
ご祝儀やら二次会代、ドレスや靴・ヘアセット代と結婚式はとにかくお金がかかる。
お金に余裕がないから、本当に祝福したい気持ちがある人の結婚式以外参加したくない。
「自分が結婚するときに呼んで回収すればいいじゃん」という意見もあるが、
私には式を上げる予定がない。
何故なら式を挙げるためのお金がないから。世間の人は400〜500万もの大金をどうやってこしらえてるのだろう。優秀な人は、自分で稼いで頑張って貯めているのだろうけど、みんな親に出してもらってるんだろ?とも思ってしまう。(調べたら、ゼクシイの調査で7割のカップルが100-200万負担してもらってるとのこと)
うちの親は生活保護を受けているくらいだし、彼の親も新卒だった彼の収入よりも低いからあてにできない。
わたしと結婚するであろう、現在お付き合いしている彼との世帯年収は約800万。
普通の会社員だから、低すぎず高すぎずの安定給料。
しかしリアルな話、今度始める同棲の初期費用やら引越しやらで100万近く消えるとしたら、2人の貯蓄を合わせた額は月のお給料3ヶ月分しか残らない。
給料の2割を貯蓄に回したとして、1年で160万貯めるとしたら(給料上がればもう少し前倒しで目標達成するかもだが)4年ほどで式を挙げられるようになるだろう。
でもまって。それを全部使うの?結婚して一文なし生活スタート?
それなら結婚式というたった1日のイベントにかけるより、日々の生活にゆとりをもたらすための家具・家電や、自分磨きのための美容だったり、リフレッシュのための旅行だったり、そういうのにお金をかけたいと思ってしまう。
ってか結婚式挙げる人たちも普通に↑で挙げたようなことしてるじゃん。みんなとは言わないけど。
大事な親友の結婚式はもちろん参加したい
これまでたくさん助けてくれたり、楽しいことを共有してくれたりした友達の
人生でたった一度の晴れ舞台。
そんな場所に招いてくれることが光栄だし、幸せを分けてもらえてありがたいまである。
ウエディングドレスを身に纏った友人の幸せそうな姿が見れるのは、嬉しくて幸せ極まりないこと。
と、同時にもやもやしたものが胸の中でかすめく。
特に、両親への手紙を読むシーン。
感謝の気持ちや幸せそうなエピソードが綴られていて感動的で涙がついこぼれそうになるが、それは純粋な感動の涙なのだろうか。
私にはないもの
夫婦喧嘩の絶えない両親。
両親の争いに巻き込まれて、聞きたくないことも聞かされ
精神疾患の持病で失職した父と、ヒステリーな母に対してどうしても許せないものがある。それは具体的に説明できるものではない何か。
わたしは両親に理不尽なことを言われるたびに、悔しさから心の中で「絶対この人を許してはいけない」と誓った。特に、母は自分に理解を示さなかったように、自分も同じ態度で母に接することで、どれだけ傷付き、我慢したか思い知らせたい気持ちが募っていった。
そんな時間を長く過ごしてきたのだから、幸せそうな家族の話を聞くとモヤっとしてしまう。純粋な気持ちでいられない自分が卑しい。
その場では、TPOにそぐわない負の感情をごまかせるが、式の帰り道に1人になった瞬間心がどんよりとしてしまう。
私の当たり前が誰かにとってのあこがれ
この感覚、ちょっと前にXで話題になった産休クッキーの話にも重なる。
産休に入る人が、産休デザインのクッキーを職場の人に配るのだが
「子どもを授かりたくてもできない人がいるから、そんなものあげるの無配慮だ」みたいな意見が上がったことから大きな反響があった。
誰かにとっての幸せを素直に喜べない人は一定数いるもので、その度に喜べない人のために配慮するのはちょっと違うよねって声の方が多かった。
それは同意。
結婚式ちょっと嫌なんだよねって思っちゃう自分が、面倒くさくて嫌になる。
わかってほしいって気持ちもどこかにあるから、こうやってネチネチブログに書いてるわけで、本当面倒くさいな。
名前も顔もない大勢に怒られてる気がして、それに対する言い訳ばかり考えてしまう。
時間の無駄
こんなネチネチとした感情に苛まれそうになった時こそ、俯瞰して自分を見ることで負のループを断ち切ることができる。
Youtubeでいろんな障害を抱える人たちが、私たち健常者に向ける眼差し
大事な人を置いて戦争に出ていった人たちが夢見たもの
肌の色や信じている宗教が異なるだけで人権を奪われた人たちがずっと憧れてきたもの
それは、私が今送っている当たり前の平穏な生活
結婚式あげられないくらいでクヨクヨするな
でも無理に参加する必要はないよねとも思う
(これは誰に何を言われても曲げない意見です)